昭和11年に起きた「阿部定事件」を題材に、大島渚監督が男女の愛の極致を描いた問題作。料亭「吉田屋」の住み込み女中となった定は、店の主人の吉蔵とひかれあい、情事を重ねる仲となる。やがてその関係が露呈したこと2人は駆け落ちし、さらなる愛欲の世界におぼれていくが……。性愛を題材にした作品が日本で十分に制作できるかという懸念から、フランスから輸入したフィルムで撮影を行い、撮影済みの生フィルムをフランスに直送して現像・編集するという方法で完成させた。日本公開版は修整が加えられたが、芸術か猥褻か表現の自由をめぐって論争が巻き起こり、後に出版されたシナリオ本をめぐっては裁判に発展するなど大きな注目を集めた。海外では1976年のカンヌ映画祭で上映され、芸術作品として高い評価を受けた。2000年12月には初公開時にカットされたフッテージをほぼ完全に復元したバージョンが「愛のコリーダ2000」として公開された。2021年4月にも「愛のコリーダ
修復版」としてリバイバル公開。
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愛のコリーダ評論(15)
息もつけないほどの強烈さは、どこか外傷的である。
男は、女の快楽を自分の欲望として、引き受ける。
女は、男の欲望を自分の快楽として、享楽にふける。
自分の快楽と他人の欲望が、境界線をなくし、二人で作った幻想を、破滅に向かって抱きしめる。
何食わぬ顔で性愛を妄想して楽しむ下品さに対して、強烈なリアルを提示されることで、観客は仮面を剥ぎ取られる。
藤竜也が、カッコよすぎる。
やっと、機会があって観ることができました。
いろいろなことを抜かしていると感じました。
定の生い立ちや、なぜ定が吉蔵を殺そうと思ったのかなどです。
これが無かったので
定がただの快楽主義者にしか見えませんでした。
吉蔵は定をなんでも許すということで愛して居たのだと思います。
定は吉蔵を愛して居たのでしょうか...。
それにしても
藤竜也がとてもいい男でした。
冒頭の、料亭のあたりに雪がしんしん降りうっすら積もる場面、喜多川歌麿の肉筆画「深川の雪」を思わせる。
これは、深川の料亭の雪の降る日の芸者衆を描いたものだ。
長らく行方不明になっていて、近年発見され、修復された喜多川歌麿の傑作の一つだ。
喜多川歌麿は、美人画を描かせたら当代随一とされる浮世絵師だが、その魅力は描かれた女性の艶っぽさだ。
そして、映画「愛のコリーダ」は、その後の展開では、「春画」のような性描写の場面が続く。
大島渚監督は、この作品を撮るにあたって、映画「四畳半襖の下張」を意識したと言われているが、同名の原作は永井荷風の小説で、永井荷風が描いたとされる春本(春画集のこと)もあるのだから、春画のようだと感じるのは当たり前なのかもしれない。
因みに、「深川の雪」は箱根にある岡田美術館の所蔵で、別途、春画を展示しているコーナーもあるので、「深川の雪」の限定公開を狙って訪れるのも良いかもしれません。
歌手のあいみょんは、春画愛好家だが、今は容易に春画を集めた画集を手に入れることができるほか、研究家の本などもあるので、ご覧になってみて下さい。
そして、作品について思うのは、人間の奥底に潜む性的な結合を求めてやまない人の心は、至極当たり前のことではないのかいうことだ。
身体のフィーリングが合うのであれば尚更ではないのか。
人間の三欲を語る時、「権力欲」と「睡眠欲」、「集団欲」は選択肢になるが、「食欲」と『性欲』を外す人はいないと思う。
更に、触れ合いたいという「集団欲」は、ちょっと「性欲」にも通じるものがある気がするのは僕だけではないように思う。
確かに、この阿部定事件のようなケースや、有名なアメリカのプロゴルファーのセックス依存症のような状況は許容出来ないと思うが、趣味が合うとか、(曖昧いだが)価値観が合うとか、そういう言葉で説明できないものが、僕達の心の奥底には絶対眠っているのだ。
狂おしいほど好きな相手であれば、ずっと身体を合わせていたいと思うことだってあるはずだ。
場合によっては、落ちるところまで落ちても良いと思うことだってあるだろう。
最近の映画で言えば、「花束みたいな恋をした」では趣味などを通じて付き合った二人は別れたが、ネットフリックス作品の「彼女」や、この「愛のコリーダ」では、人は落ちるところまで落ちてしまう。
「花束みたいな恋をした」を否定して、「彼女」や「愛のコリーダ」を肯定するつもりはない。
どちらも人の揺れ動く心によるものなのだ。
海外では「愛のコリーダ」の無修正のDVDが販売されていて、男性器が見えたのは何回とか、女性器の陰部が見られるのは何回とか、実際に挿入が確認できるのは何回とか、下世話なところのが注目されることが多いように感じる。
しかし、僕達の心の奥底に潜む…というか、当たり前にあるはずの性への欲求を、改めて客観的に考えてみる機会に出来たらいいのにと思う。
それが、単純な性欲なのか、狂おしいほど好きになったが故のものなのか。
「愛のコリーダ」にしろ「彼女」にしろ、人を殺すなんて出来ませんなどと極端な結末を前提に考えるのではなく、心の奥底に潜むものを感じながら、自分自身と照らし合わせて観るのが面白い作品だと思う。
事件後、戦前も阿部定に同情が集まったというのは、これを自分自身の心の底に潜む感情として考えた人が多くいたということではないのか。
大島渚監督の、まるで日本の伝統的な浮世絵と春画を映像に蘇らせたような画力と、そこから感じ取れるエロティシズム、物語の展開は、僕達の心の奥底を照らして、問うているような気がする。
あなたは狂おしいほど人を好きになったことがありますか?…と。
女にもてる人は、この藤達也もそうだけど、とても優しい人で、女の子の物質から精神までとても細やかなケアをする人が多い。単に気の合う合わないの問題もあるだろうけど、なかなか真似できるものではなく、非常に頭がさがる。そして精力のすごさにも頭がさがった。
2000年のリバイバル時にレンタルのVHSで見て圧倒されて、いつかスクリーンで見たいと思っていた。大島監督には申し訳ないのだが、追悼特集でこうして『戦場のメリークリスマス』など傑作が上映されるのはとてもありがたい。
露悪的でさえある性愛シーンを全編で延々見せられ、その前後は唐突な始まりと終わりという構成の歪を特殊性と評するか否か。
脱力弛緩衰弱し緩やかに絶望する男をそれでも優し気にカッコ良く演る藤竜也、まさに体当たりの巧演。
重要作ではあろう。